【研究テーマ】
文書・出土・石刻史料が語るユーラシアの歴史と文化
2025年3月17日 KU-ORCAS第16回研究例会
概要 主幹 森部 豊
2024年度の本研究班の第3回の研究例会は、研究員3名の発表をおこなった。
まず、池尻陽子研究員が、中国大陸から台湾へ移住したチベット仏教の高僧に関する資料を台北で調査し、その分析報告をおこなった。ついで、篠原啓方研究員が14世紀末から15世紀にかけての朝鮮半島における墓碑を実地調査し、朱子家礼の受容を加味しつつ報告を行った。最後に藤田髙夫研究員が、後漢時代の楊氏一族の墓碑を対象とし、『後漢書』の記載される列伝の記述と相互比較して報告を行った。
『甘珠爾瓦簡略源流』考−−近代南モンゴル化身高僧のラプラン認識−− 池尻 陽子
本報告では、民国初期から戦後までを生きたチベット仏教化身高僧カンギュルワ=ホトクト5世(1914-1978)関連資料を検討し、20世紀の転生化身高僧がラプランと国家との関係をどのように捉えていたのかを考察した。ラプランとは一般的に高僧の邸宅を指し、広義には高僧の資産を管理する単位を意味する。報告者は、本研究班初年度の報告(池尻2022)等において、チベットの高僧がラプランの維持・存続のために清朝の権威を利用していた事例を論じ、転生化身高僧の財産管理と次代の化身認定を担う単位としてのラプランの重要性を確認していた。今回、2024年8月および2025年3月に台北で実施した調査で収集したカンギュルワ5世に関する資料の分析によって、チベット仏教と国家との関係が大きく変化した近代に、化身高僧であるカンギュルワ5世がラプランと国家との関係を、清代の規定と慣例を根拠としつつ、ラプランの設置基準や公私の別を論じている説明していることを明らかにした。
墓碑の立碑から見た15世紀朝鮮士大夫墓の朱子家礼受容(2)~2024年度調査例を加えた考察~ 篠原 啓方
朝鮮士大夫の日常的な儀礼のテキストでもあった『朱子家礼』(以下「家礼」)が、14世紀末~15世紀にかけてどのように受容されていたのかについて、墓碑の立碑という点から検討した。家礼(巻之四、葬礼、治葬)が定める①石碑の規格、②形状、③碑文の叙述、④夫人の碑、⑤死亡から埋葬に至る期間と、報告者が韓国国内で調査した墓碑108基とを比較した結果、まず①は、家礼が高4尺としているのに対し朝鮮の墓碑の高さは多様であり、②は圭首よりも荷葉首が多かった。③は、碑文を一周(前面→左側面→後面→右側面)させるよう定めた家礼に従った例が皆無であり、④は夫人が先に死亡しても、墓碑は夫の死後に立てるよう定めた家礼に対し、夫の死を待たずして夫人の墓碑を立てる例が多かった。⑤は、死後3か月経ってから埋葬するよう定めた家礼に従う例が多かった。総じてこの時期の立碑は家礼に忠実とは言えず、その背景を明らかにすることが課題となった。
後漢三公の墓碑と列伝 藤田 髙夫
後漢墓碑は、史書等に現れない人物や事実についての記述を含んでおり、史書の欠を補うという利用のされ方をしてきた。ただ、墓碑の目的は故人の事績の顕彰とその保存にあり、「叙事」の文ではないために、抽象的表現が多く、そこから歴史的事実を抽出するのは容易なことではない。今回採りあげたのは、すでに正史に列伝が存在している人物について、その墓碑から読み取れる事象にどのような資料的価値があるかという問題である。具体的には、「四世三公」として名高い弘農華陰の楊氏一族の関連墓碑を分析し、とりわけその始祖である楊震について、楊震墓碑と『後漢書』楊震伝の記述を比較した。そこからうかがえるのは、墓碑の内容は同時代人が一定の情報・認識を共有していることが暗黙の前提となっているという、状況依存性であり、同時代人には墓碑の記述だけで撰述の意図が伝えられ得たという墓碑のテキストとしての完結性である。
2025年3月10日 KU-ORCAS第15回研究例会
概要 主幹 森部 豊
2024年度の本研究班の第2回の研究例会は、研究員3名の発表をおこなった。
まず、吉川和希研究員が、ベトナム北部カオバン省の山地にのこる金石資料について、2024年夏に行った実地調査に基づき、報告した。ついで、西田愛研究員がこの3年間にラダックからパルティスタン、ワハーン地域において行ったチベット岩石碑文の調査の集大成と、今後の展望を示す報告を行った。最後に森部豊主幹研究員が、20世紀後半に中国陝西省で発見された唐代の宦官の神道碑を取り上げ、その碑文に記載されるアッバース朝への出使の事績について報告を行った。
ベトナム・カオバン省の金石史料について 吉川 和希
本発表は、ベトナム北部山地の中でも東北地域に位置するカオバン省に現存する金石史料40点あまり、とりわけカオバン省博物館に所蔵される拓本について、概要を紹介すると同時に一部を取り上げて分析を加えた。まずカオバン省に現存する金石史料は、主に関帝廟関連(重修碑や広東省仏山鎮製の鐘など)、墓碑、各種功徳碑文、「后碑文」と呼ばれる寄進碑文であることを指摘した。次に𲆙嶺庯(現カオバン省チャリン県フンクオック町)の関帝廟重修碑(1877年)を取り上げ、𲆙嶺庯の関帝廟の重修に高平省の地方官が出資していることなどから、地方支配において𲆙嶺庯を拠点に活動する華人の協力を継続して得ることが目的だった可能性が高いことを指摘した。最後に古株庯(現カオバン省チュンカイン県チュンカイン町)で活動していた華人(明郷)湯発長の墓碑を取り上げ、湯発長が権充千戸、九品百戸といった武官に任命され、明郷を統率し阮朝の軍事活動に協力していたことを指摘した。
西チベット岩石碑文にみる氏族名 西田 愛
研究班の活動最終年度にあたる今年度は、先の2年の研究で課題として残した問題について取り組んだ。具体的には、まず、これまでに現地調査を実施したインド・ラダック連邦直轄領に散在する古チベット語岩石碑文のデータの統合と整理を行った。そして、録文中の氏族名を抽出し、そのロケーションごとの分布を分析した。本発表では、この研究成果に基づき、同一人物が確認できる4地点に着目して、氏族名の分布を一覧にして示した。また、ラダック地域のデータに、近年に発見されたRuthok(中国・阿里地区)および、Wakhan地域(パキスタン〜アフガニスタン)の同岩石碑文データを追加し、氏族名の分布をより広域に検証し、その特徴と傾向について、現段階での見通しを述べた。
アッバース朝へ赴いた唐の宦官―楊良瑶神道碑考察― 森部 豊
本報告は、1984年に中国陝西省で発見された「楊良瑶神道碑」を取り上げ、その史料的価値と今後の研究の方向性について発表した。「楊良瑶神道碑」は発見から14年後の1998年にはじめてその一部が公開され、2005年に碑文全文が公開された。碑文の内容は、唐の宦官であった楊良瑶の生前の事績を顕彰するもので、大きく四つの事績が語られている。一つは8世紀半ばに山西で起きたカルルクの一部族の反乱平定、二つ目は8世紀後半、安南都護府(ベトナムハノイ)への出使とその帰途、広州で反乱に巻き込まれること、三つめは785年にアッバース朝へ使者として赴いたこと、四つめは8世紀末に淮西節度使が起こした反乱の解決に関わったことである。本発表では、神道碑に対する先行研究とその問題点を整理し、碑文の概要をまとめた。特にアッバース朝への出使に関しては疑問があり、この神道碑そのものを偽物と主張する研究もある。その意見に対し、報告者は信頼できる史料であると結論付けた。
2024年12月14日 KU-ORCAS第11回研究例会
概要 主幹 森部 豊
2024年度の本研究班の最初の研究例会は、研究員3名の発表に加え、今年度、我が班で招へいしている研究員による講演を加えたものとなった。
研究例会に先立ち、青海民族大学(中国)のチョルテンジャブ准教授による講演が行われ、現代のチベットのアムド地域、すなわちおおよそ青海省におけるチベット社会において、伝統的な民間儀礼が、チベット仏教の影響や無形文化財に指定されたことによって変容する様が報告された。ついで、研究例会では、毛利研究員が、清末に抄本の形で登場し、後に歴史研究の史料として利用されてきた『靖康稗史』の真偽について報告し、ついで吉田研究員が、近年、中国で発見されたソグド人墓誌とその解釈を紹介しつつ、中央アジア史と中国史のアプローチへの新視点を提示した。最後に澤井研究員がオスマン帝国と明朝との関係について疑義を呈する報告をおこなった。
『靖康稗史』偽書説補論 毛利 英介
『靖康稗史』は北宋が滅亡したいわゆる靖康の変前後の事象について叙述した史料であり、近年中国大陸において各方面の研究分野で使用されるようになっている。だが発表者は、一般に南宋期の成立とされる同史料が、実際には清末の1890年代に江南で制作された偽書であると考えており、既に関連の研究成果を複数公表している。今回の発表ではそれらを前提として、同史料の清末から近年に至るまでの受容の経緯について検討した。具体的には、『靖康稗史』が戦後に台湾の文海出版社や大陸の中華書局のような影響力ある出版社から整理・出版されたことによる知名度及び利便性の向上と、鄧広銘や張博泉のような大陸の宋代史・金朝史の著名な研究者が研究上で利用したことによる安心感が相互作用を起こし、偽書であるにもかかわらず近年のような宋代史・金朝史研究以外にもわたる広範な使用につながったのではないかと仮説を立て、各研究者の研究上の使用の具体例を示しながら論じた。
マニ教僧侶になったソグド商人? ―森安孝夫教授の功績を偲んで― 吉田 豊
発表では西安市の大唐西市博物館所蔵「唐故回鶻雲麾将軍試左金吾衛大将軍米副侯墓誌」の内容について検討した。この墓誌については楊富学に「大唐西市博物館蔵〈回鶻米副侯墓志〉考釈」(『民族研究』2015-2)がある。楊はマニ教の僧侶であった米副侯(751–823)には4人の息子と2人の娘がいたことが知られことから、妻帯が厳禁であった景教僧侶との違いなどを強調している。これに対して日本ではコロナ禍の最中の2021年、故森安孝夫教授がこの墓誌と楊の研究に発表者を含む日本の何人かの研究者の注意を喚起して、この墓誌から回収できる歴史的シナリオについて電子メール上で討議した。その結果、米副侯は回鶻のために働くソグド商人であり、回鶻の息がかかった長安のマニ教教団と結託して、回鶻銭の運用などを行っていた。米副侯の死に際して回鶻は唐側に「雲麾将軍試左金吾衛大将軍」という高い称号を与えさせ,官費で葬儀を行わせたことが推定されることになった。
オスマン朝と「魯迷」再考―嚕蜜銃の明への伝播と朶思麻― 澤井 一彰
本報告では、ユーラシア大陸における東西交流史の重要資料として、半世紀以上も前から知られた『神器譜』の記述内容にかかわる歴史的評価について、従来は等閑視されてきたオスマン朝史料を主に用いて再検討を試みた。『神器譜』は、豊臣秀吉による朝鮮出兵と向き合った明軍の苦戦を背景に、倭銃すなわち日本銃に対抗するべく、より優秀であると考えられたオスマン朝の銃(嚕蜜銃)の操作教本ともいうべき著作である。そこでは、嚕蜜銃は嘉靖年間に嚕蜜から来訪した「朶思麻」なる人物がもたらしたとされ、先行研究ではこれをもってオスマン朝と明との間には公式的な外交関係が存在したと解釈されてきた。しかし明実録の記事や、オスマン朝の一次史料と突き合わせて考えると、朶思麻は、制限された朝貢の規模を拡大しようとした近隣のウイグリスタン・ハン国によって、オスマン朝の名を語って送られた偽使であった可能性が極めて高い。一方、銃そのものについてはオスマン朝製であった可能性が残される。ただし、これもオスマン朝が中央アジアのシャイバーン朝に対して行った軍事支援の結果、その一丁がウイグリスタン・ハン国経由で北京に流れた蓋然性が高いと考えられる。
2024年2月17日 KU-ORCAS第6回研究例会
概要 主幹 森部 豊
ユーラシア歴史文化研究班として第 3 回目の研究例会である。まず吉田豊研究員が、ゴビ砂漠のセヴレイで発見されたソグド語碑文を取り上げ、ウイグル可汗国が唐との境界にあたる国門に建てた石碑がそれであると報告し、さらに8 世紀にヒンドゥークシュの南を支配したハラジュ突厥の王が発行したコインに、バクトリア語の銘文以外にソグド語銘文もあることを指摘し、その歴史的な背景も報告した。次に、澤井一彰研究員が、2013 年に沖縄県うるま市の勝連城跡から出土し、2016 年にその事実が公表された 10 枚の銅貨のひとつである H.1099( 1688)年付オスマン朝マングル銅貨をとりあげ、その歴史的背景をあきらかにするとともに、なぜ、オスマン朝の銅貨が勝連城跡から発見されたのか、その考えられ得る可能性についてオスマン朝社会経済史、とりわけ貨幣史の研究成果を踏まえつつ報告した。最後に、池尻陽子研究員が、チベットの書簡マニュアルをいくつか取り上げ、それらにおいて敬意記号チェターがどのように説明されているかを報告した。
歴史資料としてのソグド語の金石文:碑文とコインの銘文を例として 吉田 豊
本発表では、ゴビ砂漠のセヴレイで発見されたソグド語碑文を取り上げ、『新唐書』の「回鶻伝」に見える宰相李泌が 787 年に、当時の皇帝の徳宗に語った言葉の中で言及された、回鶻が国の門に建てた石碑がそれであると論じた。セヴレイ付近は、唐の時代「花門山」と呼ばれており、「国の門」と呼ばれるに相応しい。また現在残された碑石断片から推定される碑文は、高さ 7 メートルに達する巨石であ ったらしいことを示した。そしてこれを建てたのは近年中国の学者の于子軒(『唐研究』2022)が想定する第 4 代頓莫賀可汗(位 779-789)ではあり得ず、第 3 代牟羽可汗(位759-779)の可能性が高いことを示した。別に、8 世紀にヒンドゥークシュの南を支配したハラジュ突厥の王が発行したコインに、バクトリア語の銘文以外にソグド語銘文もあることを指摘し、その歴史的な背景も議論した。
勝連城出土のH.1099(1688)年付オスマン朝マングル銅貨とその歴史的背景 澤井 一彰
本報告では、2013 年に沖縄県うるま市の勝連城跡から出土し、2016 年にその事実が公表された 10 枚の銅貨のひとつである H.1099( 1688)年付オスマン朝マングル銅貨に注目し、その歴史的背景をあきらかにするとともに、考えられ得る可能性についてオスマン朝社会経済史、とりわけ貨幣史の研究成果を踏まえつつ検討した。具体的には、このマングル銅貨が、長引く戦役による戦費増大と、君主の代替わりに際して支払われる賞与の財源を捻出するために、それまでのアクチェ銀貨に代えて基軸通貨化を試みられた稀有な時期に発行されたものであることをあきらかにした。この銅貨は、最終的に、アクチェ銀貨と等価での流通を強いられたために経済混乱の主因となり、約 3 年間という非常に短い期間で発行が停止された。しかしこの間には、オスマン朝の領内だけでなくフランスにおいても大量の私鋳銭が製造され、流通したことも同時によく知られている。すなわち、勝連城跡で発見されたマングル銅貨も、こうした贋金のひとつが、フランスあるいはオランダを経由して、東アジアに到来した可能性が高いという結論に達した。
チベットの書簡マニュアル(yig bskur rnam bzhag)における敬意記号(che rtags)に関する記述について 池尻 陽子
チベットの書簡マニュアルとは、適切な書簡( yig bskur,'phrin yig )を作成するための解説、用例集である。本報告では、チベットの主要な書簡マニュアルをいくつか取り上げ、それらにおいて敬意記号チェターがどのように説明されているかを検討した。今回取り上げた中では、チェターについての解説が明確になされているものは非常に少ない一方、敬意表現としては擡頭に関する記述がいくつかの書簡マニ ュアルに散見されることを確認した。
2024年2月10日 KU-ORCAS第5回研究例会
概要 主幹 森部 豊
ユーラシア歴史文化研究班としては、第 2 回目となる研究例会は、まず藤田髙夫研究員が、石刻の隆盛期である後漢後半の墓碑のうち、後漢の文人蔡邕 の『蔡中郎集』に収められた墓碑を採りあげ、テキスト分析の初歩的考察を行った。次に、篠原啓方研究員が、15 世紀における朝鮮士大夫墓の墓碑をとりあげ、その立碑から見た朱子家礼の受容の様相について報告した。最後に西田愛研究員が、2022 年 8 月にバルティスタン(パキスタン東部)において行った、チベット語石柱碑文と磨崖碑文、岩石碑文に関する調査結果を報告した。
テキストとしての後漢石刻 ―『蔡中郎集』所収墓碑へのアプローチ― 藤田 髙夫
本報告では、石刻の隆盛期である後漢後半の墓碑のうち、後漢の文人蔡邕の『蔡中郎集』に収められた墓碑を採りあげ、テキスト分析の初歩的考察を行った。はじめに後漢の墓碑の一例として、蔡邕の手による「郭泰碑」を紹介し、とりわけそこに含まれる情報を概観した。次に、『蔡中郎集』から28碑を選び、底本としてDonald Sturgeon氏が主導するChinese Text Projectのデジタルデータを用いてテキスト分析を加えた。具体的には、文字の共起ネットワーク、1文字および2文字での頻出語の抽出結果などを示した。最後に、後漢の墓碑のテキスト分析のために必要となる辞書作成のステップにおいて、『蔡中郎集』所収墓碑の有用性を指摘し、今後のロードマップを示した。
墓碑の立碑から見た15世紀朝鮮士大夫墓の朱子家礼受容 篠原 啓方
本報告は、韓国の首都圏に分布する高麗時代末期~朝鮮時代初期(14世紀後半~15世紀)の墓碑44例を現地調査し、その内容を類型化して『家礼』の受容がどのようであったのかについて考えた。まず立碑位置については墓の前部中央であるものが多く、家礼の「立小石碑於其前」に即している。次に墓碑の規格については、地上に露出している部分を基準として見ると、家礼の「高四尺、趺高尺許…、但石須闊尺以上、其厚居三之二」よりは小さいものが多い。碑首の形状は朝鮮時代の碑に特徴的な「荷葉」をかたどったものが多く、家礼が定める「圭首」とは異なる。年月の記載については「立石」の日が多く、次いで「葬」の日が多い。特に「葬」の日は、死亡日からおおよそ4カ月以内がほとんどで、家礼「三月而葬…」(三カ月で葬儀を行なう)の内容に則ったものであると考えられる。
西チベット岩石碑文調査報告 西田 愛
本発表では、2022年8月に現地調査を行なったバルティスタン(パキスタン東部)のチベット語石柱碑文と磨崖碑文、岩石碑文に関する報告を行なった。これらのチベット語碑文は、古代チベット帝国期、およびその子孫がたてた西チベット王家による当該地域への侵攻を考える上で、重要な史料であると言える。このうち、マンタルにある磨崖碑文については、2019年に調査を実施したラダック(インド北西部)のスマンラ磨崖碑文と、内容および構成が類似することがチベット語録文の比較を通してわかってきた。また、岩石碑文については、バルティスタンのシガル、ゴル、フォンナク、ユゴの4地点における実見調査の報告を行なった。バルティスタンの岩石碑文は、インダス川、シュヨク川沿いに散在するという地理的な共通性のみならず、録文の内容からもラダック地域のチベット語岩石碑文との関連が明らかである。
2023年12月16日 KU-ORCAS第4回研究例会
概要 主幹 森部 豊
2023 年度のユーラシア歴史文化研究班の活動は、第 4 回 KU-ORCAS 研究例会が初めてであった。ユーラシア歴史文化研究班では、文書や碑文など、非典籍史料を利用したユーラシア史研究をテーマにしている。今回の研究例会では、毛利英介研究員が遼寧省北鎮一帯で出土した遼代の石刻史料、特に墓誌をとりあげ、その概要と問題点を報告した。吉川和希研究員はベトナム・黎朝期の行政文書などを利用し、国家祭祀について報告を行った。森部豊主幹研究員は、唐代の墓誌や銅鐘銘文を利用し、唐後半期の軍制研究の展望について報告を行った。
中国遼寧省北鎮市出土遼代墓誌銘群に関する初歩的研究 毛利 英介
中国遼寧省北鎮市は歴代中華王朝の国家祭祀の対象となった北鎮(=医巫閭山)を祀る北鎮廟の存在で有名だが、遼代には顕陵(東丹王・世宗皇帝父子を埋葬)・乾陵(景宗皇帝・承天皇太后夫妻を埋葬)という複数の皇帝陵を擁する特別な地であったことが特徴である。遼代の皇帝陵としては、内モンゴルに位置する慶陵が戦前からの発掘調査により著名である。それに対して北鎮所在の皇帝陵は相対的に等閑視されて来た。それが2010年代から一帯の発掘調査が展開された結果、近年多くの陪葬墓が発見され墓誌銘も出土している。今回はそのような墓誌銘の中から「耶律宗教墓誌銘」(本墓誌銘の出土は 1990 年代にさかのぼる)と「韓徳譲墓誌銘」のそれぞれ一部分の記述に注目し、検討を行った。具体的には、前者の「渤海聖王」と後者の「猶子之誠」である。そして「渤海聖王」は遼における渤海認識の検討において、「猶子之誠」は遼の対宋関係とそこでの承天皇太后の位置づけの検討において重要な記述であることを指摘した。
ベトナム黎鄭政権の国家祭祀の変遷 吉川 和希
17 ~ 18 世紀の北部ベトナムでは黎朝朝廷が形骸化、鄭氏が王府を開設し、独自の政権を構築していた(黎鄭政権)。黎鄭政権の統治の実態については一定の研究蓄積があり、たとえば黎朝の支配機構に代わり鄭王府の官吏が徴税に当たっていたことが指摘されている。ただし、あらゆる面において鄭王府が黎朝朝廷に取って代わったのか否か、十分には解明されていない。そこで本発表は国家祭祀に注目し、従来使用されてきた典籍史料に加えて行政文書(の写し)などの非典籍史料も活用しつつ、以下の新事実を解明した。(1)黎鄭政権では、南郊・太廟(黎朝の宗廟)・宮廟(鄭氏の宗廟)・孔子が「四尊」と呼称されている。(2)1720 年前後の礼番の設立と調銭の施行により、各種国家祭祀を鄭王府が実質的に管轄できる条件が整った。実際それ以後、鄭王府による南郊祭祀の代行(1724、1776 年)や孔子像の「司寇像」から「袞冕像」への転換(1755 年)などがおこなわれた。(3)形式上太廟と宮廟は共に「四尊」だが、供物の量や皂隷の数の面で宮廟が厚遇されていた。
青梅社鐘から見る唐後半期の「府兵制」 森部 豊
本報告は、1986 年にベトナム・ハノイから出土した「青梅社鐘(タインマイの鐘)」銘文を手掛かりとし、唐代後半期の「府兵制」の実態に関し、今後の展望を試みた。青銅製の青梅社鐘は、唐の貞元十四(798)年に鋳造・奉納されたもので、この鐘の製作に関係した「随喜社」という仏教信仰団体(社)構成員 53 人と鐘の鋳造に参加した施主、合わせて 243 人の名前が鋳刻されている。そのうち、34 人が唐朝の軍職である折衝府の官職を持っている。これらの人々は、ベトナム北部に居住する人々であるが、34 人が帯びた折衝府官は、中国北部の山西省と陝西省に置かれていたものが半数以上を占める。また、折衝府は、もともと唐代前半期に農民を徴兵して軍事訓練を施し兵士とし、都の警備に送りこむ役割を持っていたが、この鐘が鋳造される半世紀ほど前の749年に、すでにその役割が停止されていたものである。では、この折衝府官は何を意味するのだろうか。実は典籍史料、墓誌などを精査すると、749 年以降でも折衝府官を帯びる人の存在をいくつか確認することができる。それらに対し、様々な見解があるが、史料の分析を経た実証的なものではない。本報告は、ベトナム北部に籍を有する者が中国北部の折衝府官に任じられていることを重視し、唐後半期においても、何らかの形で折衝府の機能の一部が、藩鎮体制下で残っていたのではないかという見通しを述べた。
2022年11月26日 KU-ORCAS第4回研究例会
概要 主幹 森部 豊
2022年度第3回の研究例会は、中央ユーラシアからトルコという空間の歴史文化に関する三人の研究報告をおこなった。西田愛研究員の「西チベット岩石碑文研究の現在」、澤井一彰研究員の「オスマン朝治下のイスタンブルにおける居酒屋にかかわるカラマン=トルコ語墓誌」そして吉田豊研究員の「ソグドの貨幣をめぐって」であり、ともに金石資料をもちいた研究報告であった。
西チベット岩石碑文研究の現在 西田 愛
本発表では、近年、新たな発見報告が続々ともたらされている西チベットの岩石碑文について発表を行なった。ここでいう西チベットとは、現在の区分で言えば、概ね中華人民共和国・西蔵自治区のンガリ(阿里)から北西インドのラダック、ザンスカル、スピティ地域までを指し、そこからパキスタンが実効支配するバルティスタン、アフガニスタンのワハーン渓谷にかけての地域を東西に走るインダス川やシュヨク川、ヌプラ川などの主要河川沿いにチベット文の記された巨石や岩石が散在しているのである。20世紀初頭に始まった当該碑文に対する研究を2000年以前と以降に分けて概観した上で、最新の研究動向を紹介した。また発表者自身がフィールドワークを実施し、分析を行なっている録文中の氏族名についても、現段階での検証結果の報告を行なった。
オスマン朝治下のイスタンブルにおける居酒屋にかかわるカラマン=トルコ語墓誌 澤井一彰
本報告では、オスマン帝国の都であったイスタンブルに焦点を絞りつつ、ムスリムと非ムスリムとが長らく「共生」するなかで広範に見られた飲酒行為と、その主たる「場」として機能した居酒屋(メイハーネ)の実態の一端について報告した。また、その具体的事例として、19世紀末のイスタンブルに生きた居酒屋関係者とされる1人のギリシア正教徒の妻の墓碑を取り挙げつつ、そこに確認される複雑な多文化的要素ついて考察した。墓碑には、アナトリア東南部の都市ニーデ近郊のイロソン(イラサン)村出身のサッヴァという名の居酒屋関係者の妻ヴィツレームが、1897年に死去したことがカラマン=トルコ語によって記されている。カラマン=トルコ語とは、かつてアナトリアに居住したトルコ語を話すギリシア正教徒によって、ギリシア文字を用いて記されたトルコ語である。同墓碑では、巡礼者はハジュ、神がアッラーと表記される一方で、暦はヒジュラ暦ではなくユリウス暦で記されるなどオスマン帝国における文化的混交の一例が垣間見られた。
ソグドの貨幣をめぐって 吉田 豊
発表ではソグド語圏、とりわけチュー川流域(現在のキルギス東北部)で発行されたコインを扱った。この地域は天山山脈西部の北麓の草原地帯であり、古くから康居や烏孫といった遊牧民が住んでいた。5世紀頃からソグド人が定住を始め都市を建設した。その後チュルク系の突厥や突騎施、カルルクといった遊牧民族とソグド人が共生する地域となっていた。その間7世紀の後半に、この地域の東の端は唐の時代に安西都護府の一部になり、その砕葉鎮が設置され、8世紀の初めまで維持されていた。10世紀後半には、チュルク系の遊牧民がイスラムに改宗し、カラハン朝を樹立した。その時期までこの地域ではソグド語が話されていた。この発表ではカラハン朝以前にこのチュー川流域で発行されたコインを扱った。コインはすべて中国式のブロンズ製方孔銭で、銘文はソグド文字ソグド語である。銘文の解読から、支配者を推定する事がある程度可能であることを述べた。
2022年9月24日 KU-ORCAS第2回研究例会
概要 主幹 森部 豊
ユーラシア歴史文化研究班の2022年度第2回研究例会は、中国、ベトナム、朝鮮各地に関する非典籍史料をあつかった研究報告3本がなされた。吉川和希研究員「18世紀後半〜19世紀初頭の北部ベトナムにおける皂隷と村落」、篠原啓方研究員「資料紹介:故井上秀雄先生所蔵拓本について」そして藤田髙夫研究員「中国木簡筆跡研究の課題と展望」の3本であった。
18世紀後半〜19世紀初頭の北部ベトナムにおける皂隷と村落 吉川和希
発表者はこれまでの研究で、仏寺や神祠などを維持管理する代わりに各種税役が減免される皂隷に焦点を当て、18世紀北部ベトナムの村落住民による官への働きかけを分析した。本発表では、先行研究では考察されてこなかった黎朝(1428〜1527/1533〜1789)西山朝(1788〜1802)阮朝(1802〜1945)と支配勢力が頻繁に入れ替わる18世紀末〜19世紀初頭における村落住民の動向を、山西処広威府明義県各村落の事例を中心に考察し、以下の事柄を明らかにした。①北部ベトナムを支配する王朝が変わると、皂隷の村落は新政権に対して上申し、旧来通り公的負担を免除してもらうよう要請していた。②西山朝・阮朝いずれも一部の村落の要請を認めず、認可されなかった村落は再度政権に文書を発出していた。③国家祭祀に認定された神を祀る村落の多くを祭祀台帳に記載し皂隷に認定した黎朝後期に比べ、西山朝や阮朝は皂隷の対象を制限したため、正祠をめぐる村落間の争いが勃発した可能性がある。
資料紹介:故井上秀雄先生所蔵拓本について 篠原啓方
井上秀雄先生(1924-2008)は、戦後の朝鮮古代史研究者の第一世代にあたり、新羅史・日韓交流史に多くの業績を残し、また韓国の資料や研究の紹介に尽力した。2019年秋、遺族から「蔵書・資料を教育・研究に役立ててほしい」との連絡を受けて引き取りを約束したが、コロナ禍により調査が延期され、2022年4月にようやく訪問が実現した。8月には拓本の一部をお預かりし、朝鮮古代および高麗時代の拓本資料28種(44枚)を目録にして紹介した。朝鮮前近代の拓本資料は日本全国の研究機関で所蔵されており、その多くは戦前の収集品である。井上先生の拓本資料は、量においてそれらに劣るものの、戦後、自らの調査や研究者との交流によって得られたものであり、いわゆる解放(1945.8)以降の韓国における新出資料や、北朝鮮研究者の訪日時に寄贈された資料を含んでいる。同資料は、学術的価値のみならず、現代における日韓・日朝の文化交流を示すものとして貴重である。
中国木簡筆跡研究の課題と展望 藤田髙夫
歴史資料としての木簡が有する情報には、その記載内容の他に形態や材質などが含まれるが、現在のところ木簡に書かれた「文字の姿」に関わる情報を活用した研究はほとんど行われていない。その理由として、中国木簡の研究が当初から「活字化された釈文」を偏重してきたことがあげられる。今回の発表では、中国木簡が一文字ずつの解析を行う上で有利な点、すなわち①いわゆる続け書きがなく、一文字ずつが独立していること、②赤外線写真の公開が標準となったことで、文字領域の認識が容易になったこと、を踏まえ、従来空白であった中国木簡の「筆跡研究」の可能性を探った。実例として、書き手の違いから、木簡文書作成の具体的プロセスがうかがえること、「正本」「副本(コピー)」の識別に一定の指標を示しうること、さらに書き手の識別から文書行政の段階を復原できること、などを示した。
2022年7月30日 KU-ORCAS第1回研究例会
概要 主幹 森部 豊
2022年度の第1回ユーラシア歴史文化研究班の研究例会は、池尻陽子研究員「摂政テモ・ホトクトによるサムイェー僧院修繕と清朝からの扁額賜与」と毛利英介研究員「『靖康稗史』偽書説一本文の検討を踏まえて」そして森部豊研究員「唐代後半期のソグド系武人の系譜とその活動」の3人の研究報告をおこなった。空間的にはユーラシア東部地域、時間的には唐代から清代までをカバーするものであった。
摂政テモ=ホトクト晩年におけるサムイェー僧院修繕と扁額賜与の請願について 池尻陽子
18世紀半ばにダライ=ラマ8世の摂政を務めたテモ=ホトクト七世が行ったサムイェー僧院修繕事業の意義を、『ダライ=ラマ8世伝』やチベット語・満洲語檔案史料を用いて検討した。テモ7世が晩年にサムイェー修繕を進めた背景には、自身の摂政期の総仕上げとして、ダライ=ラマ8世と摂政テモ7世のヤプセー(父子)関係を印象づける狙いがあったことなどを指摘した。
『靖康稗史』偽書説―本文の検討を踏まえて― 毛利英介
本発表では、北宋が金によって滅ぼされた靖康の変について叙述した野史である『靖康稗史』が偽書ではないかとの趣旨で発表を行った。というのも、『靖康稗史』はその序文によれば南宋の成立とされるが、南宋当時から清末にかけてその実在が確認できず、1890年代の中国江南に初めて出現したからである。なおこの点については既に別途研究成果を公表したことがある。かかる不分明な来歴にもかかわらず、管見では従来『靖康稗史』が偽書である可能性が正面から論じられたことはなく、むしろ近年では問題なく使用可能な史料であるとの風潮が強まっている。このような学界状況に一石を投ずべく、本発表では本文に対して複数の観点から分析を行い、その結果『靖康稗史』には清代後半期の要素が如実に存在して南宋成立の史書とは考え難いことを論じた。
唐代後半期のソグド系武人の系譜とその活動 森部 豊
本報告の目的は、唐代の玄宗朝以降に散見されるソグド系武人について、墓誌史料を利用しつつ、その系譜と活動を浮かびあがらせようとする試みの基礎的作業を行うものであった。従来、唐後半期に活動したソグド系武人は、突厥の遊牧文化の影響をうけたソグド系突厥を中心に語られてきたが、それは再検討する必要がある。そこで、まず編纂史料中に見える中央禁軍に属すソグド系武人の事例を紹介し、つぎに20世紀後半から21世紀初頭にかけて発表された5点のソグド系武人の墓誌を利用して唐中後半に活動したソグド武人のうち、中央禁軍や関中地域で活動したソグド武人の出自について考察を加えた。その結果、唐代後半期に活動したソグド系武人は、従来、報告者が述べてきたソグド系突厥のみならず、安史の乱時に中央アジアからやってきて唐朝麾下の軍人となったソグド人とその末裔が存在していたこと、そしてもう1つは、唐代半ばになっても、依然として涼州にソグド人が一定の勢力を保持し住み続けており、そこから唐後半期に活躍する武人が輩出されていた事実が明らかになった。